作者の山本温(やまもと おん)さんは、「平成の新版画」を標榜し、現代の日本の風景を木版画で制作する若手版画家です。「築地百景」は、閉場間際の築地市場やその周辺の情景を内側と外側の両面から描いた作品群です。築地の交差点を通りかかりましたら、お母さんがこの絵ハガキを売っていましたので購入しました。外国人が大量に買ってくれることがあるので助かっていますと言っていました。1枚200円。
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▶2026(令和8)年度 東京教区仏教壮年会連盟 門徒推進員1日研修会の感想(長生寺門徒 廣瀬隆夫)
門徒推進員の研修会に参加しました。昨年は30人でしたが、今年は44人に増えて盛況な研修会になりました。ただ、参加者にもう少し若い門徒の人が入ってくれると良いなと思いました。たいへん内容の濃い良い研修会でした。教務所の皆さんありがとうございました。
■ 場所:築地本願寺 蓮華殿
■ 日時:2026年10月11日(日) 10時30分~16時45分
■ 開会式 10:30
・勤行「重誓偈」、挨拶
■ 講義①「蓮如上人の生涯と伝道に学ぶ」(60分) 10時45分
・講師 那須公昭師(浄土真宗本願寺派 総合研究所)
・講題「蓮如上人の生涯と伝道に学ぶ」
▶ 内容と感想
蓮如上人の波乱に満ちた生涯をさらっと解説していただきました。門主を継職されたのは43歳だったのですね。それから新興宗教ゆえの迫害を受けながら浄土真宗を広めていった人徳と手腕は常人離れしていたのでしょうね。生涯、5人の妻を迎え、27人の子どもをもうけたというのはすごいですね。しかも、最後の子どもは84歳の時に生まれたというのですから驚きです。
私たちが使っている赤い日常勤行聖典(にちょうじょうごんぎょうせいてん)も蓮如上人が開版したというのは知りませんでした。お勤めで正信偈をあげますが、これも蓮如上人が考えたものだそうです。
蓮如上人は、本願寺をいろいろな所に移ししながら布教されていますが、必ず近くに海や湖がある所を拠点に選んでいます。当時は、陸路より海路が発達していましたので、貿易などの大きな商売をする場合は、水が必要だったのではないかと思います。海路を使って海賊まがいの商売をしていた商人に支持されていたのではないかと思います。戦略家で政治力もあったのですね。
それにしても、蓮如上人が、親鸞聖人の教えをずっと守り続けていたというのもすごいことです。新しい宗派を作ることも出来たのではないかと思いますが、いかに親鸞聖人の教えに帰依していたかがわかります。蓮如上人は、歎異抄を長い間、封印していたということは有名な話ですが、親鸞聖人の教えを完璧に理解していてそれが曲解されるのが許せなかったのでしょうね。
浄土真宗を作ったのは親鸞聖人ですが、その教義を万人が分かるように編集して知らしめたのが蓮如上人ではないかと思いました。広報担当、編集者やプロデューサーの才能があった人だったと思います。親鸞聖人と蓮如上人は、時代が違いますから直接的な接点はありませんが、二人三脚で浄土真宗を今ある形に作り上げた人だと思います。ソニーの創業者の井深大(まさる)さんと成田昭夫さん、あるいは、ホンダの本田宗一郎さんと藤沢武夫さんのような関係だったのではないでしょうか。
蓮如上人という存在がなかったら、今の浄土真宗がこんなに大きな教団にはなっていなかったのではないかと思いました。
~ 昼食(弁当) 12:00
■ 講義②「新しい連研の在り方について」(60分)13:00
・講師 宮本 義宣師(東京教区 神奈川組 高願寺)
・講題 「新しい連研の在り方について」
▶ 内容と感想
連研は、1978(昭和53)年に始まり、今年で48年目になるそうです。2028年には50周年になるので記念行事を行う予定だそうです。その間、連研の内容や進め方が大きく変わってきました。最初は、僧侶が主体になり浄土真宗の教義を教えることが中心でした。それゆえどうしても結論ありきの内容になってしまうきらいがありました。その反省を踏まえて、門徒からの問いを引き出すという方針に転換しました。そして、悩みや悲しみを聞きあいながら法に問い聞く連研へと方向転換をしました。今までは、お寺と関わってきた人が連研を受講するケースが多かったのですが。今後は、お寺とあまり関りが無かった人、聴聞の経験がない人にも参加してもらう方向に向かっているそうです。そのために、連研の12回の基礎学習のマニュアルが作成されました。
連研で最も重要な研修は話し合い法座です。今までの法座は、10人程度のグループで構成され、司会と記録、発表者を決めて進められてきました。しかし、この方法では、司会や記録者に選ばれた人に負担がかかり、十分の対話ができないという弊害がありました。深い対話をするためには、3人のグループがベストで、司会や記録をせずに対話に集中することで、より深い話ができるというお話がありました。
ということで、今回の話し合い法座は、前半5人と後半3人のグループを作って同じテーマで話し合いをすることになりました。
テーマは、「自らの死を受け入れていけるのか否か」です。中外日報の「疎死社会(造語)」という新聞記事から選ばれていました。記事はこのような内容でした。
• 死との疎遠化: 日本人の約4割が、身近な人の死を経験したことがないなど「死」と疎遠になっている
• 漠然とした不安の増加: 全体の4割強が「漠然とした不安を感じる」と回答している
• 逃避的な対処行動: 死と向き合う経験が乏しい層ほど、不安に対して逃避的な対処をとる
• 困難を乗り越える力への影響: 死から目を背けることが習慣化すると、人が脆弱化し死や困難を乗り越える力が弱まる
~ 休憩 14:00
■ 話し合い法座 (100分)
・テーマ 「自らの死を受け入れていけるのか否か」
・前半 5人グループ 14:15
・後半 3人グループ 15:00
▶ 内容と感想
高齢化社会は進み「多死社会」と呼ばれる時代に個々人が死と向き合う機会が失われている。それを、築地本願寺は「疎死社会」と名づけたのですが、そのことについて話し合いを行いました。親の延命治療を断った話、心筋梗塞でご自身が死にそうになった話、核家族が進んで人の死を見ないまま大人になり親の死で初めて死に出合うという人が増えてきたなどの話がありました。
私は、最近、青少年の自死が増えている話をしました。10代〜30代の死因の第1位は「自死」です。全体の自死者数が減少傾向にある一方で、若年層だけが増加傾向にあります。その要因は、疎死だと思います。若者がトーヨコなどと呼ばれるたまり場に行って薬をたくさん飲むオーバードーズが社会問題になっていますが、そのような人たちは、決して死にたいとは思っていないのではないかと思います。苦しみから逃れたい楽になりたいということから安易に死を選んでいるのではないかと思います。死に対する理解不足です。この世に居場所がない、生きている価値がない、死とは何だか分からない、とにかくこの場から逃げたい、そんな理由が自死を増やしている理由だと思います。
司会と記録、発表がないのは楽でしたが、関係ない話に花が咲いて暴走してしまうという危険性もあると思いました。3人グループの法座では、二人の女性と話しましたが、テーマと関係ない話がほとんどで少し困りました。脱線を防ぐためのファシリテーターが必要だと思いました。
~ 休憩 16:05
■ 講師よりまとめの講義 16:15
人はそれぞれ、意見が違っていたり理解が異なっていたり、考え方や価値観の不一致がある。「対話」を通して互いの思考プロセスに注意を払い、 他者を理解すると同時に、自分自身の理解を深めていく。そのようにすることで、お互いの理解が深まる上に相手との共通の理解を見いだすことができる、というような主旨のお話でした。
参加されていた人から、死について関心を持ってもらうためにお寺に行く機会を増やしたらどうかという提案がありました。例えば、喜寿、傘寿、米寿、卒寿などのタイミングで、門徒の皆さん向けにお寺が生前葬という法事を行ったらどうかという内容でした。法話で、若い人に死や命の大切さを話していくということは、進みゆく「疎死社会」を乗り越える名案だと思いました。
■ 閉会式 16:30
・挨拶、恩徳讚
■ 終了 16:45
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【参考資料1】
▶対話(ダイアローグ)のすすめ(高原寺住職 宮本 義宣さん)
■ 対話を通して、 お互いの理解を深め合う
10年以上前のことになりますが、お寺で仏教をテーマにワークショップをさせて欲しいとの申し出をいただき、 お寺で開催したことがありました。その催しで興味深かったのは、参加者が対話する時間が設けられていたこと。そのときは、たしか「無我」というテーマに沿って、3人のグループになって話し合ってもらい、しばらくしたらメンパーを入れ替え、また話を続けてもらうというものでした。
浄土真宗本願寺派でも、これまで「話し合い法座」という取り組みを50年間続けてきました。従来の法座は僧侶が一方的に法話をお話しすることが大半でした。しかし、「話し合い法座」では、 「聞いてくださる方々の気づきを大事にするため、法話終了後にそのテーマに沿って、7、8人のグループでそれぞれの想いを話し合い、開き合い、お互い理解を深めあうことを重要視したのです。
この法座のあり方は、本願寺第8代宗主蓮如上人がおっしゃった「四、五人の衆、寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」というお言葉を取り入れたものです。ちなみに、ここで言う「談合」は、悪い意味ではなく、 談じ合うこと。お互いが思ったままのことを口に出して、語り合うということです。仏法を一方的に聴くと、独りよがりになるので、聴いたことをみんなで話し合うことが大事ですよというおすすめでした。
■ 精神医学でも注目される 「対話」の重要性
さて、先述のワークショップでは、 この取り組みを「ダイアローグ」と呼び、 より人数を減らした3人で行いました。 私は初めて体験したのですが、より会話に近いような感じで気楽に話ができたように思います。何か結論を求められて導かれるのではなく、自分の思ったことを率直にお互いに話し合い、思考を深めていくことができたのです。
ダイアローグとは「対話」を意味します。アメリカの物理学者デビット・ ボーム (1917年-1992年)の定義によれば、「考えをはっきりと述べつつも、自分の主張や立場に固執することなく、互いの言わんとする意味を深く探求する会話」のことで、その目的は「相互の思考プロセスに深く入り込み、思考のプロセスを変えていくこと」 だそうです。
また、ダイアローグが、自由な雰囲気で行われる真剣な話し合いであって、 相手の意見を尊重しつつ、自分の意見との違いを認識して相互理解を深めることを目的としています。つまり、相手を説得するわけでもなく、独りよがりになるのでもなく、ということなのでしょうか。その重要性に注目され、 近年は企業の会議の場などに取り入れているそうです。
さらに、フィンランドの医療現場で取り入れられるようになった「オープン・ダイアローグ」という治療的介入の手法も注目されています。これは日本語訳では「開かれた対話」という意味。 にわか知識でしかありませんが、相手を批判しないでとにかく対話をするという決まり事を設けるというもの。統合失調症、うつ病、引きこもりなどに有効とされているそうです。
「ダイアローグ」や「オープン・ダイアローグ」が提唱するとても大事な部分は、「対話」の存在が、会社や組織、 あるいは医療現場で取り入れられていくのみならず、私たちの身の回りの環境のなかで求められているという点です。人はそれぞれ、意見が違っていたり理解が異なっていたり、考え方や価値観の不一致があります。「対話」を通して互いの思考プロセスに注意を払い、 他者を理解すると同時に、自分自身の理解を深めていく。そうすれば、お互いの理解が深まる上に相手との共通の理解を見いだすことができるのではと思うからです。家族や友人知人といった身近な環境の中でこそ、大事にしたいことのように思います。(築地本願寺新報 2026年4月号)
■ 宮本 義宣(みやもと・ぎせん)
1962年川崎市生まれ。高原寺住職。 ご縁のあるお寺やご門徒さん方が生産する全国の「よいもの」を扱う 「高願寺お取り寄せ市場」をはじめ、 生活にお寺を取り入れた豊かな暮らしをめざし、活動中。
【参考資料2】
▶「疎死社会」のいのちの意味 死者との関係がはらむ深淵(東京科学大教授 弓山達也さん)
本紙で報じた通り、先月公表された『2026年 築地本願寺不安調査』は、「多死社会」と呼ばれる時代に個々人が死と向き合う機会をむしろ失いつつあるという逆説を浮かび上がらせた。築地本願寺はこの状況を「疎死社会」と名づけた。
例えば「死と向き合う機会・時間や経験はあまりない」と答えた人は4割に達し、若年層では約2割が「墓がない、またはどこにあるか知らない」と答えたという。死が日常から遠ざけられることで、死への理解や心の整理がなされず、恐怖や不安だけが残り、それが現代人の漠然とした不安にもつながる、という指摘である。
一方で別の潮流もある。前世紀末から「葬送の自由」が唱えられ、葬儀や墓、死後のあり方を自ら選び、生前に整える傾向が強まった。納棺体験も広がり、デスカフェやDeathフェスでは、従来ならためらわれた死の話題が公然と語られる。人びとは死を疑似体験し、自分の死を自分で管理しようとする。
死を遠ざける「疎死」と、死を身近に引き寄せるこうした動向は、一見すると正反対である。もちろん、築地本願寺の意識調査と変化を先導する実践とでは、対象層も異なる。それでも両者は、死を前にした「いのち」を自分の意のうちに置こうとする発想で通じる。管理できない死は忌避し、関心の外へ置く。他方、管理可能と思われる死は手元に引き寄せ、計画し、選択する。いずれにも、いのちを自らの手で整えたいという志向が見えるのだ。
そんなことを考えながら大阪・関西万博で注目を集め、現在は東京・高輪で開催されている「いのちの未来+」を訪れた。石黒浩大阪大学教授がプロデュースする本展はアンドロイド、映像、演劇的な空間を通じ、「人間とは何か」「いのちとは何か」を問う。
老い、身体の限界、死といった避けがたい現実を、技術によって拡張し、記憶を保存し、生死さえある程度制御できる50年後の未来が示される。アンドロイドは問う。死を前にして、いのちを全うするのか、記憶をアンドロイドに引き継ぐのか。そもそも、いのちは身体に宿るのか、記憶にあるのか、それとも遺族との関係の中にあるのか、と。
問いは刺激的で、観る者に省察を促す。しかし同時に、どこか既視感のある平板な議論にも感じられた。結局、いのちは選択可能なデータとして扱われてはいないか。その視点からは、喪失の痛み、赦し、罪責、沈黙、祈りといった、死者との関係がはらむ深淵には届きにくい。また、私たち自身が生み出した技術の限界や、その不可逆的な進行へのためらいも、ほとんど見えてこなかった。
冒頭の疎死社会の報告で印象深いのは、死と向き合う経験が不安への耐性を育み、死の意識が生への活力を生む、という指摘である。いのちが自分の意のままにならないと悟るとき、人は小さな自分と向き合う。そして他者、自然、死者、さらには自分を超えた何ものかとの関係に目を開くのではないか。いのちの意味は、管理や選択の中だけでなく、その関係の深みにおいてこそ現れるのだ。(時事評論2026年9月16日 )



