2019年6月29日土曜日

鎌倉組 第13期 連続研修会 第5、6回 真楽寺(国府津)

鎌倉組 第13期 連続研修会 第5、6回 真楽寺
記録:長生寺 檀家 廣瀬隆夫
※この文章は、私の感想に基づいて備忘録として書いたもので厳密なものではありません。
● 2019年6月1日(土)12時30分 国府津駅集合〜2日(日)11時10分 箱根湯本温泉ホテル解散(国府津真楽寺、勧堂(すすめどう)、箱根石仏群、箱根神社宝物館、)
● 研修生 17名
● 1日目
・12時45分〜13時30分:おつとめ (讃仏偈、浄土真宗の生活信条、組長挨拶、真楽寺住職のお寺の縁起の説明、帰命石見学、菩提樹見学、勧堂跡見学)
・14時:バスで箱根へ移動
親鸞聖人お別れの石、石仏群、箱根神社宝物館 橋本順正氏説明
・17時10分:箱根湯本ホテルにてオリエンテーション
・19時:懇親会
● 2日目
・8時:おあさじ(讃仏偈)
・8時30分~10時45分:
講義(今井雅晴先生 筑波大学名誉教授)「関東の親鸞聖人〜相模布教の意義〜」
・11時〜11時15分
閉会式(感話、恩徳讃、閉会の言葉、事務連絡)
・11時15分:現地解散
● 次回 8月3日(土)善福寺(大磯)

■ 見たこと、学んだこと、感じたこと
・勧堂(真楽寺から徒歩5分):茨城県稲田の西念寺で教行信証を執筆された後に56歳で、家族揃ってこの地に7年間滞在されて布教をされた。勧堂という石造りのお堂が残っていた。海の近くなので風化しないように石で囲ったと考えられる。良寛の五合庵のようにここに住んでいたというのでなく説法をした場所だったらしい。

・帰命石(真楽寺):真楽寺の境内の帰命堂で、親鸞聖人が名号を書かれたと伝えらる「帰命石」を見学した。現在のものは、後の時代に作られたもので、親鸞聖人が書かれた筆跡が残っている実物の石は、風化を避けるために、お堂の地中に埋められているということであった。
「親鸞聖人が逗留の頃、勧堂の下へ一切経を積んだ唐船が着岸した。その船底に石八枚が積まれていた。親鸞聖人、帰洛の時に末世の人々のためにその石に指で二つの名号を書かれた」ということが「新編相模風土記」に書かれているという住職からのご説明があった。古い「帰命石」の拓本が残っていたが、指でなぞったような書体であった。
(帰命石にかかれてる名号)
帰命尽十方無碍光如来
南無不可思議光佛

・親鸞聖人手植の菩提樹(真楽寺):本堂の横に、大きな菩提樹があった。樹齢370年と推定できるという教育委員会の解説があった。親鸞聖人が植えられたものを、植え継いだものではないかと書いてあった。

・石仏群(旧箱根街道):精進池のほとりにある溶岩石に彫った箱根石仏群の二十五菩薩などを見学した。1体だけ阿弥陀様が彫られているということで探して見つけることができた。砂岩でなく、溶岩性の自然石に彫ってあるので古いものであるが風化が少なくきれいに形が残っていた。

・曽我兄弟の墓(旧箱根街道):日本の三大仇討ちの一つで有名な曽我兄弟の墓。後の二つは赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘(荒木又右衛門)。

・日本最古の宝篋印塔(旧箱根街道):石の表面が錆びていたので磁石を近ずけてみたら反応があった。マグマと同じで鉄分が含まれている。溶岩でできた石だと思われる。

・親鸞聖人お別れの石(旧箱根街道):関東布教を終えて京都に帰られるときに腰かけたと云われている石。歌も残っているらしいが、バスの中からの見学だったので見ることができなかった。

・親鸞聖人の銅像(箱根神社):昭和39年に戦争で亡くなった学生を供養するために、親鸞聖人慈悲の像として建てられた。鏡の御影を基にしているだけあって厳しい表情であった。浄土真宗の本山が太平洋戦争に協力したことがあり、その自省の念も込められているらしい。

・講義(箱根湯元ホテル3F会議室)「関東の親鸞聖人〜相模布教の意義〜(今井雅晴先生 筑波大学名誉教授)」
【越後流罪】
親鸞聖人は35歳で越後(新潟)に流されたが、所謂、罪人としての扱いでなく、身分や衣食住は保障されていた。そうでなければ、妻帯して子どもを作り、家族と生活することなどできなかっただろう。布教の対象は、農民だけでなく武士も多かった。

【関東での活動】
40歳前に越後の流罪を解かれて常陸(茨城)の稲田の草庵で教行信証を執筆した。その教行信証を携えて、権力の中心地の鎌倉幕府や関東の玄関口箱根に近い国府津で布教活動を始めた。親鸞聖人は、明晰な頭脳で分析されて影響力の大きいこの地を選ばれたのではないか。ここでの生活は七年と短いが重要な期間であり、この草庵だけに定住していたのでなく、草庵の近くの地域に住んでいたということらしい。

鎌倉に浄土真宗の寺院が少ないのは、それだけ既存仏教の寺院が力を持っていて根付いていた。そこに新たに寺を作るというのは難しかったからということらしい。長生寺もそうだが、鎌倉の近くのほとんどの寺院は、親鸞聖人や蓮如聖人の説法に感化を受けて、天台宗や真言宗などから改宗している。

【親鸞聖人の布教】
この時代は、律令制が定着して荘園が広がっていた。農民は厳しい生活を強いられていた。その中から土地を守るために武士が台頭し争いが絶えなかった。江戸時代のように平和な時代ではなかった。権力者に抑圧されていた庶民の鬱積が溜まっていた時代とも考えられる。親鸞聖人は、農民、武士、商人、職人など、苦境に喘ぐ万人が救われるためにはどうすれば良いのかを考えられた。一部の支配階級、裕福で教育を受けた者、修行して悟りを開いた者だけが救われるということはおかしいと考えられていたに違いない。

浄土真宗は、当時のキリスト教のように理解しがたい邪教として迫害を受けていたのでなく、庶民も幸せに生きる権利があるという基本的人権を覚醒させたということに対する権力者の怖れがあったのではないか。弾圧をしていた支配階級も浄土信仰は理解しており、憧れすら持っていたらしい。

■ 全体を通しての感想

武士が台頭し最初の幕府が鎌倉に出来た時代でまさに変革期。荘園が作られ、土地争いの戦が繰り返され、庶民は苦しい生活を強いられた。生きるために物を奪い人を殺すなどは日常茶飯事であった。

親鸞聖人は、このような庶民に目を向けて全ての人を救うにはどうしたら良いかを考え抜かれた。国府津の滞在は、教行信証を書き終えて、その内容を検証する重要な七年間だったのでは思う。

この相模の地で教行信証を検証し「自分の考えは正しい」という確証を得て、それを携えて京都に戻り、浄土真宗の布教の総仕上げのフェーズに入られたのではないかと思う。

親鸞聖人は、比叡山の延暦寺に二十年以上修行され、あれだけの著作を著された秀才であるが、時代の風を読み生涯人類の幸福について考え続けた救世主でもあった。

箱根神社の親鸞聖人の銅像を拝見すると、厳しい表情の中に深い知性を感じる。非常に頭の良い合理的な考えができる人、全ての人を救うという慈悲の心を持った人、また現実主義の人ではなかったかと思う。

他人が幸せになることを説く前に、自分が幸せでなければならないと考えていたのではないか。うまいものを食べ、気持ち良く眠り、温かい家庭を作り、健康で楽しい生活を送るという万人の欲求を追求し実践してみせたのではないか。一人ひとりがこのような生活をすることで世の中が良くなり、時代が前に進むと確信していたに違いない。

無理をするな、自由に生きろ、幸せになれ、そんなことを親鸞聖人は言われているのではないか。浄土真宗は、まだまだ分からないことだらけだ。でもだから面白い。先は長い。無理に分かろうとしなくていい。これで良いのだ。










































0 件のコメント: