2019年8月8日木曜日

鎌倉組 第13期 連続研修会 第7回 善福寺(大磯)

鎌倉組 第13期 連続研修会 第7回 善福寺(大磯)
● 記録:長生寺 檀家 廣瀬隆夫
※この文章は、私の個人的な感想で正確な記述ではありません。
● 2019年8月3日(土)13時〜16時15分
● 研修生 17名
・開会式(開式の言葉、正信偈、浄土真宗の生活信条、役員(北條さん)挨拶、善福寺住職挨拶、真宗宗歌)
・問題提起(苦・しあわせについて 武蔵野大学准教授:前田壽雄(ひさお)さん)
・班別話し合い(13時50分~14時50分)
・発表(15時~)
・全体協議会 まとめ 前田壽雄さん
・閉会式(感話(等さん)、恩徳讃、閉会の言葉)16時15分終了
● 次回 第8回 10月5日(土)上正寺(茅ヶ崎 小和田)

■ 感想
前回の箱根研修の続きで、大磯に行った。お寺は、平塚と大磯のちょうど真ん中にあり、どちらから行っても同じ距離。JR平塚駅の北口は大きなバスのりばになっていて目的のバス停を探すのにひと苦労した。偶然、研修生数人に会えたので、珍しく迷うことなくお寺に行くことができた。

川の近くの立派なお寺で、庭に大きな穴が空いている築山のようなものがあるので不思議に思ってお寺の縁起では、縄文時代の横穴式古墳の遺跡ということだった。最初は善福寺住職のお話。親鸞聖人は、越後(新潟)に流され、その後、常陸(茨木)で教行信証を執筆されるのですが、その後に相模(国府津)に布教された際に、聖人の教化を受けた平塚入道(了源)が開祖となるお寺というご説明があった。了源さんは、俗名を曽我十郎祐成の子どもの祐若と言い、曽我十郎祐成は、仇討ちで有名な曽我兄弟の兄。了源さんの坐像が残っており、親鸞聖人の坐像とも言い伝えられている。
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/jisya/zenpukuji.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/曾我兄弟の仇討ち

今回の演題は、「苦とは何か、しあわせとは何か」であった。前田さんは最初に言葉の定義をされた。苦とは不快や嫌なことでなく、思い通りにならないこと。しあわせとは、仕合わせ、すなわち、巡り合わせの妙ということであった。幸せという漢字は本来の意味ではないということであった。

中島みゆきの「糸」という歌がある。

・・・・
なぜ めぐり逢うのかを私たちは なにも知らない。
(省略)
縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼びます。
・・・・

これが本来の”しあわせ”の意味である。

始めに研修生が3つのグループに分かれて話し合いをした。討論でなく、自分の考えを自由に述べて、思いを解き放す場である。

お客様からのクレーム対応で、マニュアル通りに納得してくれない場合に、苦を感じるという。逆に、話が自分の思い通りにうまく進んだ時には、しあわせを感じる。機械やコンピュータは、自分の思い通りになるので、うまく動いてくれている間は苦を感じない。それでも、ミスが起きるのは、ほとんどの原因は人間が作っている。人が介在しない限り苦は感じない。でも、全てがうまくいってしまうというのは、少しも面白くないし、しあわせも感じない。

草取りでは、自分の意思で勝手に草を刈ることができる。草は、文句を言わないのでストレスを感じない、それをしあわせに感じている人がいるという話があった。でも、それが、しあわせなのだろうかという意見が出た。モノでも植物でも、相手を思いやるという気持ちが必要ではないのか。

苦がなければ、しあわせもないというのがこの話し合いの一つの結論であった。

班別の話し合いが終わって、前田さんからの謎解きのようなお話があった。

そもそも、仏教は、人生は苦だ、というところから始まっている。何も不自由なく育ったブッダは、東西南北、城の4つの門の周りを歩いているうちに、自分ではコントロール不能な4つの苦があることに気づいたという。生老病死である。この4つの苦しみを解決するために出家して僧にになったと言われている。若気の至りとは言え、苦を克服するとは、ずいぶん無謀なことを考えたものだ。まあ、当時のブッダは苦労を知らずに育てられた人なのでので仕方がない。

生老病死をさらに掘り下げて、好きな人と別れる時の苦しみ、嫌な人と付き合わなければならない苦しみ、欲しいものが手に入らない苦しみ、自分が思うようにならない苦しみに分けた。思うようにならないというのは、自分の肉体、感覚、想像、心の作用、意識のことだという。生身の人間だから当然と言えば当然だ。

この4つの苦を合わせて四苦八苦と言うらしい。今日の会議は、四苦八苦したなぁとかに使うそれである。

この苦を解消するために考え出したのが、悟りへの具体的な方法である四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)である。

四諦とは、4つの真理のこと。真理といってもブッダが勝手に考えたもので、三角形の内角の和は180度である、というような数学の公理とは違う。

一切は苦であり、何事も苦から始まるという。苦から始まる究極の悲観論者である。菩提樹の下で修行をした時、余程大きな心の傷を負ったのではないかと思う。四苦八苦は、まさに苦を集約したものである。

その苦には原因があるのだという。火の無いところに煙は立たず。当たり前と言えばあたりまえ。エネルギー保存則だ。苦の原因はなにか。3つの原因があると言っている。自分にとって都合の良いものだけを貪り集める(貪欲)、自分にとって都合の悪いことに憤り怒る(瞋恚 しんに)、自己中心にしか物事が考えられず、真理を見さだめようとする心がなく嘆く(愚癡、愚痴 ぐち)。要するに、他の人のことを考えずに、世の中に自分しかいないように考える自己中が苦の原因だという。今流にいうと、私ファーストである。

この苦を撲滅しなければならない。そんなことができるのか、と思ったら、これがさとりということらしい。苦の原因である煩悩を滅した境地が、さとり(涅槃)という考え方。真理に到達した状態。涅槃とは、吹き消された状態のこと。メラメラと燃えているロウソクを吹き消すと天に向かって細い煙が伸びる。これが苦を克服した姿。他人の喜びや悲しみを共感できる豊かな心の状態。これがさとりである。ある意味、極楽浄土、桃源郷、理想的な世界である。

最後に、苦を撲滅してさとりを開くための方法を説いている。これをまとめたのが八正道である。旧約聖書にも「モーセの十戒」というものがある。人を殺してはならないとか、モノを盗んではならないなどが書かれているが、八正道では、細かい指図はなく正しい生活をしなさい、と簡単に述べている。日本人は民度が高いのでこれで分かるのだ。もう少し高度な問題解決のノウハウが詳しく書かれている。ロジカルシンキングでも同じようなプロセスを教えている。まず、現状を調べて今どんな状態かを把握する。それから、あるべき姿を考え、その差分を埋める方針を立てる。方針が決まったら、具体的な方策を考える。正しい行為を繰り返して、あるべき姿に向かって努力する。最後の精神統一というのがおもしろい。自分の精神を自分でコントロールしろ、ということ。外乱が来てもブレないように精神統一して突き進めと言っている。修行である。

1.正しい見解 (正見) 、2.正しい思索 (正思惟) 、3.正しい言葉(正語) 、4.正しい行為 (正業) 、5.正しい生活 (正命) 、6.正しい努力 (正精進) 、7.正しい思いを続ける (正念) 、8.正しい精神統一 (正定)

さとりを開くためには、燃え盛るロウソクの火が消えるまで一心不乱に修行する必要がある。滝に打たれたり、千日かけて山を歩きながら修行する千日回峰行をする修行僧の姿が目に浮かぶ。親鸞聖人は、普通の人は、こんなことは出来ないんじゃないかと言っている。このやり方では、万人を救うことは出来ないと言っている。親鸞聖人本人も、九歳で比叡山に入って、二十九歳まで二十年間も修行したにも関わらず、さとりを開けなかったという経験がある。自分のことをへりくだって「煩悩具足の凡夫」と言っている。そして、煩悩を断ぜずして涅槃(さとり)を得るにはどうしたら良いかを考えた。(不断煩悩得涅槃)

親鸞聖人は、落胆して比叡山から下りた後に、専修念仏を考え出した法然聖人にであった。まさに、巡り合わせの妙、仕合わせである。自分の想定を超えた出会いである。法然聖人に出会わなかったらこんなことを考えている自分もいないのだろうから、本当に不思議で面白い。親鸞聖人の疑問や悩みは、ここから、一気に霧が晴れるように解消する。今まで積み重ねてきた経験、常識を根底からひっくり返すような人生最大のターニングポイントに出会う。

ここで唐突にアミダ様という神様が出てくる。アミダ様は、全ての人を救うために四十八の請願をされたと、お経に書かれているらしいが、私は、まだ、そこまで勉強が進んでいない。それにしても四十八というのは多いな、と思う。覚えきれるものではない。たくさんのことを願ったのだよ、ということかもしれない。ブッダは、絶対的な神様としてアミダ様を考えていたらしい。天体でいうと太陽である。太陽がなければ、動物も植物も生きていくことができない。太陽系の中にあって、全てのエネルギーの源泉は太陽である。生きものは、太陽がなければ、一瞬たりとも生きていくことはできない。天照大神もそうだが、世界中の神話には、太陽を神と崇めている話が多い。古代ギリシャやエジプト、インカ帝国の神話にも太陽神が出てくる。太陽が信仰の対象になっている。岡本太郎が生きていたら聞いてみたかったが、彼が作った太陽の塔も、創作のヒントは太陽神だと思われる。

太陽、すなわちアミダ様がそこにあり、ブッダは、そのまわりを回る地球のようなものと教えていたのではないか。真言密教の曼荼羅も同じような世界観だろう。太陽がなければ、この世は闇だ。全てのものに光を届けているのが太陽、アミダ様であるという考え方だ。アミダは阿弥陀で当て字なので漢字の意味を詮索しても何も出てこない。古代インド語でアミターバから来ていて、「はかりしれない光を持つ者」という意味らしい。仏壇にかけてあるアミダ様の肖像画をみると、光背という光が書かれている。アミダ様は太陽神であると、私は考えている。

アミダ様は、とにかく平等を旨とする。光は、全てのモノに平等に届くのだから。悪人だろうと善人だろうと別け隔てはしない。差別をしないというのがアミダ様の良いところだ。地位や身分は関係ない。みんな切れば血がでる生身の人間だという考え方。浄土とアミダ様の関係がいまいち良く分からないが・・・。

人は、なにかと0と1のデジタルで考えたがる。その方が簡単で考えやすいから。親鸞聖人は、善と悪、自分と他人、生と死、浄(きよい)と穢(けがれ)、愛と憎、優と劣、有と無、美と醜という相対的な価値観に意義を唱えている。そんな単純なものじゃないと思っている。悪人と善人もはっきり区別なんてできない、これは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機でも言っている。全てをありのままに大切な尊厳ある存在として、自己と同じように生きとし生けるものを等しく見ていく心をもつことが、浄土真宗における人間観や生命観の根源的な立場である。白と黒の間にも、無限のグラディエーションがあり分けられない。それがおもしろくて人間的だ。

この平等心を得て、生きとし生きるもの一人ひとりを、一人の子どものように掛け替えのない存在と捉えて大切にしていくことから、親鸞聖人はこのような境地を一子地(いっしじ)と呼んでいるらしい。

何もわからない子どもも、分別ができる大人も、悟りきった老人もみんな同じ、武士も農民も非人も賤民も、みんな平等だということ。アミダ様という太陽のような大きな存在から見るとみんな同じに見えるということ。

スコットランドの羊という話がある。
天文学者「スコットランドの羊はみんな黒いんだね」
物理学者「そうじゃないよ。黒もいれば白もいる、遠くから見ると黒く見えるんだよ」
数学者「大地には少なくとも1匹の羊がいて、その羊の少なくとも片面は黒いということだよ」

アミダ様は、物理学者や数学者のように細かいことにこだわらず、天文学者の目をもっていたのだろう。親鸞聖人は、自力で修行してもブッダが説いたさとりの境地にたどり着くことは無理だろうと考えている。それは、比叡山で20年も修行したのに悟れなかったという自分の経験からきている。

「凡夫というは、無明煩悩われらが身に満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬む心多く、暇なくして、臨終の一念に至るまで、留まらず、消えず、絶えず」

煩悩は抑えることはできない、死ぬまで消えないよ、と言っている。自分で消そうとしても無理。それを消してくれるのが、アミダ様のはたらきということである。本当だろうか、という疑問が残る。アミダ様の大慈悲心は、修行して自分が特別な何かにならなくても、この身、このままで誰でも「しあわせ」になれることを教えてくれているという。浅学の私には理解できないところが多い。今回は、ここまで。

感話(等さん)
 世の中には、自分は失敗したことがない、と豪語している人がいる。失敗は成功のための肥やしなので失敗ではないという。野球のイチロー選手は、自分の人生は失敗だらけだという。失敗は失敗と素直に受け入れる。失敗して谷底へ突き落とされてはじめて、何クソと奮起して頑張れるのだという。失敗したことはしかたがない、潔く失敗と受け止めているところがイチロー選手らしい。水泳の小谷実可子さんは、オリンピックにでたとき、精一杯練習したのでメダルが取れても取れなくても良いという境地になったという。そのようにリラックスして試合に出て結果は金メダルだったそうである。2020年のオリンピックでも。どんなドラマが生まれるか楽しみである。










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