2019年6月29日土曜日

2019年度鎌倉組仏教壮年会連盟総会 議事録

2019年度鎌倉組仏教壮年会連盟総会 議事録
2019年6月9日 記録 廣瀬隆夫(組仏壮連盟理事)

4:30:受 付 開 始
15:00:開 会 式(本 堂)
1)開会の辞
2)勤 行(ごんぎょう)(讃仏偈)
3)仏教壮年会連盟綱領唱和
4)鎌倉組組長挨拶
5)鎌倉組仏教壮年会連盟理事長挨拶

-----〈議 場 設 営〉-----

15:30:総会
・議案1 2018年 度 活 動 報 告
・議案2 2018年 度 収 支 報 告 (会計監査報告)
・議案3 2019年 度 活 動 計 画 案
・議案4 2019年 度 予 算 案
・議案5 そ の 他

閉会式
1)『恩徳讃』斉唱
2)閉会の辞

-----〈 休 憩 〉-----

15:50 講 演 会 (パネルディスカッション)
■ 講 題 : 鎌倉組仏壮連盟をいかに活性化するか
・パネリスト: 宮南 靖 氏(教区仏壮連盟理事長)
・橋本 正一氏(鎌倉組長)
・阿部 好明 氏(組・教区仏壮連盟元理事長)
・黒川 孝一 氏(組仏壮連盟理事長 )
・モデレータ :田中 孝典 氏(組仏壮連盟理事)

■ 問題提起(田中)
鎌倉組の寺院の中で、仏教壮年会(以下、仏壮)を結成している寺院は、当初の7ヶ寺のまま増加していない。7ヶ寺中、理事が選出されていない寺院が1ヶ寺、理事が理事会に出席できない状況にある寺院が1ヶ寺ある。いずれも、寺院の仏壮が活動休止状態にあると思われる。現在、理事は12名だが、2名は一度も理事会に出席いただけていない。総会、ボウリング大会とも、参加寺院数、参加人数が減少傾向にある。このような仏壮の衰退傾向の状況を打破するためにはどうしたら良いのかを皆さんで議論していただきたい。教区の状況はいかがでしょうか。

■ 教区の状況(宮南)
総代会と仏壮の組織的なつながりが上手く行っているところは、仏壮の活動順調な所が多い。東京教区の中では、栃木県の正浄寺がその好例だが、地域のコミュニティの意見を取り入れて仏壮が企画したものを総代会が承認するという組織ができており連携がうまくとれている。東京23区は、お寺と檀家が住んでいるところが離れているというハンディはあるが、コミュニケーションができていない。その結果、若者が入ってこなくなり高齢化が進んでいる現状がある。

■ 来恩寺の工夫(橋本)
来恩寺の仏壮の活動は活性化しており、お寺の活性化にも繋がっている。ボウリング大会には若い人や女性、子どもに積極的に参加してもらうようにしている。仏壮、仏婦、子どもが別々に活動するのではなく、できるだけ一緒に活動できるような場をつくることが仏壮の役割ではないか。

■ お寺の住職の協力が重要(黒川)
仏壮だけで活動を広めるのには限界がある。住職が音頭を取って仏壮の活動を盛り上げてほしい。色々な相撲部屋があるが部屋の規模に関わらず土俵に上がって相撲を取ることができる。仏壮の役割は、みんなが出会える相撲の土俵のようなもの。とにかく檀家の人たちを土俵に上げるための後押しをしてもらいたい。土俵の上では、相撲と同じでお寺の大きさは関係ない。

■ 仏壮のないお寺に働きかける(阿部)
男性女性に関係なく、仏壮のないお寺も働きかければ参加してくれるのではないか。以前のイベントで、仏壮のないお寺に呼びかけることで、前年度の2倍の260名の参加を得たことがあった。また、連研との連携も重要だ。浄土真宗本願寺派が行っている連研は誇るべきもので、連研から門徒推進委員への流れはよくできている。これを仏壮の活動につなげたらどうか。また、住職は日頃から連研に参加させたい人をピックアップしておいてほしい。お寺の読書会などを経て連研に参加している人は多い。

■ お参りカードの提案(橋本)
組内の17ヶ寺をスタンプラリーのようにしてお参りする”お参りカード”のようなものを作ったらどうか。全てのお寺を回ると賞品をもらえるとか。鎌倉組17ヶ寺の中で仏壮があるのは7ヶ寺だが、中には仏壮を作らないという方針の住職もいる。門徒の活動を盛り上げて仲間を増やして、檀家の方から住職の背中を押すというのも一案だ。

■ 仏壮を連研卒業生の受け皿に(阿部)
かつて、連研を卒業した門徒推進委員を組の役職にはめ込んで成功した例がある。福井さんの「蜂は何で刺すのか」というお話が好評だったが、法話会などを通して門徒推進委員に参加してもらったらどうか。仏壮に入っていれば、お寺どうしの仲の良い人たちとのつながりができる。本山に行けば全国的な規模で、もっと多くの友だちができる。仏壮の活動を通して、心地良く付き合える人たちの輪を広げるということができると考えている。

■ 連研の楽しさを仏壮に(廣瀬)
現在、連研を受けているが、鎌倉組のお寺を回って、親鸞聖人のお話をお聞きするのは楽しい。それを一つひとつ読み解いていく過程で色々な発見があり、多くの出会いがある。難しい内容で分からないことも多いが、難しいからおもしろいという面もある。先生方のお話や班別に分かれて研修生と門徒推進委員とのお話、感話などにも、様々な気付きや出会いがあり視野が広がった。連研の箱根湯本での一泊研修で私の高校時代の友だちと同じ職場だったという人に出会った。何かに出会えるという連研の楽しさを仏壮の活動に結びつけることができたら良いと思う。仏壮の活動が楽しい出会いの場となればお寺にもっと人は集まると思う。

■ 心地よさ(田中)
どこに行っても知り合いがいるというのは心地よい。若い人を呼び込む秘策はありますか。

■ 共通のテーマで人を集める(宮南)
今は、昔と違って若い人を飲み会に誘ってもなかなか来ない。清掃活動やボランティア活動という、みんなが興味を持てる共通のテーマであれば集まる。みんなで一つの方向に向かうという状況を作ることができれば年齢の差は関係なくなって参加が増えるのではないか。とにかく、みんなでやっていて楽しいという場を作ることが重要だ。

■ 仏壮の亡くなったメンバーの合同追悼供養の提案(橋本)
鎌倉組仏教壮年会連盟の理事として活動されていた、源波さん、青木さんが亡くなった。ご家族の方もお呼びして合同追悼供養をやったらどうか。

■ 法事を増やす(成田)
これからは、高齢化が進み多死時代になる。多死時代になったら法事をやってお寺に来る機会を増やしたらどうかと考えている。そのために過去帳をめくって亡くなったご先祖のことを調べてもらう。法事には亡くなった人がここに帰ってくる、色々な世代の人達が集まる。みんなの顔が見れる。法事は楽しい。こういう流れを作ったらどうか。

■ 子どものテーマから高齢者、青年、婦人を呼び込む(宮南)
子どもたちのためにパラリンピックの重量挙げの選手の講演会を企画した。高齢者、青年、婦人が子どもたちについてくる。孫をかすがいにして次のテーマを考えたらどうか。

■ 入るきっかけは様々(阿部)
私が、仏壮の活動に入ったきっかけは息子の死であった。入るきっかけは様々だ。住職は、日頃から檀家の人たちのことを気にかけて欲しい。

■ いろんな人の力を借りる(田中)
仏壮の中には、色々な特技を持った人がいる。その人たちの出番を作って力を借りることも重要だと思う。

まだ、話し足りないこともあるかと存じますが、懇親会の準備も整ったようですので、最後に、黒川さんにまとめていただきたいと思います。

■ まとめ(黒川)
様々なご意見やご提案をいただきありがとうございました。今回のパネルディスカッションで出していただいた貴重な内容を今後の仏壮の活動の参考にさせていただきたいと思います。1ヶ寺でも多くのお寺に参加していただくと同時に、各寺院の門徒の方々との交流を広げて、活気のある仏壮にしていきたいと思います。これだけのことをいっぺんにやることは難しいと思いますので、出来るところから少しづつ始めていこうと思います。今後とも、ご協力をお願いいたします。

■ 終了(田中)
それでは、これで終会とさせていただきます。パネリストのみなさん、貴重なご意見をいただきありがとうございました。

-----〈休 憩・移 動〉-----

17:30 懇 親 会(会 館)
会所住職挨拶
乾杯
食前のことば

-----〈歓談〉-----

19:00-中締め-
食後のことば



鎌倉組 第13期 連続研修会 第5、6回 真楽寺(国府津)

鎌倉組 第13期 連続研修会 第5、6回 真楽寺
記録:長生寺 檀家 廣瀬隆夫
※この文章は、私の感想に基づいて備忘録として書いたもので厳密なものではありません。
● 2019年6月1日(土)12時30分 国府津駅集合〜2日(日)11時10分 箱根湯本温泉ホテル解散(国府津真楽寺、勧堂(すすめどう)、箱根石仏群、箱根神社宝物館、)
● 研修生 17名
● 1日目
・12時45分〜13時30分:おつとめ (讃仏偈、浄土真宗の生活信条、組長挨拶、真楽寺住職のお寺の縁起の説明、帰命石見学、菩提樹見学、勧堂跡見学)
・14時:バスで箱根へ移動
親鸞聖人お別れの石、石仏群、箱根神社宝物館 橋本順正氏説明
・17時10分:箱根湯本ホテルにてオリエンテーション
・19時:懇親会
● 2日目
・8時:おあさじ(讃仏偈)
・8時30分~10時45分:
講義(今井雅晴先生 筑波大学名誉教授)「関東の親鸞聖人〜相模布教の意義〜」
・11時〜11時15分
閉会式(感話、恩徳讃、閉会の言葉、事務連絡)
・11時15分:現地解散
● 次回 8月3日(土)善福寺(大磯)

■ 見たこと、学んだこと、感じたこと
・勧堂(真楽寺から徒歩5分):茨城県稲田の西念寺で教行信証を執筆された後に56歳で、家族揃ってこの地に7年間滞在されて布教をされた。勧堂という石造りのお堂が残っていた。海の近くなので風化しないように石で囲ったと考えられる。良寛の五合庵のようにここに住んでいたというのでなく説法をした場所だったらしい。

・帰命石(真楽寺):真楽寺の境内の帰命堂で、親鸞聖人が名号を書かれたと伝えらる「帰命石」を見学した。現在のものは、後の時代に作られたもので、親鸞聖人が書かれた筆跡が残っている実物の石は、風化を避けるために、お堂の地中に埋められているということであった。
「親鸞聖人が逗留の頃、勧堂の下へ一切経を積んだ唐船が着岸した。その船底に石八枚が積まれていた。親鸞聖人、帰洛の時に末世の人々のためにその石に指で二つの名号を書かれた」ということが「新編相模風土記」に書かれているという住職からのご説明があった。古い「帰命石」の拓本が残っていたが、指でなぞったような書体であった。
(帰命石にかかれてる名号)
帰命尽十方無碍光如来
南無不可思議光佛

・親鸞聖人手植の菩提樹(真楽寺):本堂の横に、大きな菩提樹があった。樹齢370年と推定できるという教育委員会の解説があった。親鸞聖人が植えられたものを、植え継いだものではないかと書いてあった。

・石仏群(旧箱根街道):精進池のほとりにある溶岩石に彫った箱根石仏群の二十五菩薩などを見学した。1体だけ阿弥陀様が彫られているということで探して見つけることができた。砂岩でなく、溶岩性の自然石に彫ってあるので古いものであるが風化が少なくきれいに形が残っていた。

・曽我兄弟の墓(旧箱根街道):日本の三大仇討ちの一つで有名な曽我兄弟の墓。後の二つは赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘(荒木又右衛門)。

・日本最古の宝篋印塔(旧箱根街道):石の表面が錆びていたので磁石を近ずけてみたら反応があった。マグマと同じで鉄分が含まれている。溶岩でできた石だと思われる。

・親鸞聖人お別れの石(旧箱根街道):関東布教を終えて京都に帰られるときに腰かけたと云われている石。歌も残っているらしいが、バスの中からの見学だったので見ることができなかった。

・親鸞聖人の銅像(箱根神社):昭和39年に戦争で亡くなった学生を供養するために、親鸞聖人慈悲の像として建てられた。鏡の御影を基にしているだけあって厳しい表情であった。浄土真宗の本山が太平洋戦争に協力したことがあり、その自省の念も込められているらしい。

・講義(箱根湯元ホテル3F会議室)「関東の親鸞聖人〜相模布教の意義〜(今井雅晴先生 筑波大学名誉教授)」
【越後流罪】
親鸞聖人は35歳で越後(新潟)に流されたが、所謂、罪人としての扱いでなく、身分や衣食住は保障されていた。そうでなければ、妻帯して子どもを作り、家族と生活することなどできなかっただろう。布教の対象は、農民だけでなく武士も多かった。

【関東での活動】
40歳前に越後の流罪を解かれて常陸(茨城)の稲田の草庵で教行信証を執筆した。その教行信証を携えて、権力の中心地の鎌倉幕府や関東の玄関口箱根に近い国府津で布教活動を始めた。親鸞聖人は、明晰な頭脳で分析されて影響力の大きいこの地を選ばれたのではないか。ここでの生活は七年と短いが重要な期間であり、この草庵だけに定住していたのでなく、草庵の近くの地域に住んでいたということらしい。

鎌倉に浄土真宗の寺院が少ないのは、それだけ既存仏教の寺院が力を持っていて根付いていた。そこに新たに寺を作るというのは難しかったからということらしい。長生寺もそうだが、鎌倉の近くのほとんどの寺院は、親鸞聖人や蓮如聖人の説法に感化を受けて、天台宗や真言宗などから改宗している。

【親鸞聖人の布教】
この時代は、律令制が定着して荘園が広がっていた。農民は厳しい生活を強いられていた。その中から土地を守るために武士が台頭し争いが絶えなかった。江戸時代のように平和な時代ではなかった。権力者に抑圧されていた庶民の鬱積が溜まっていた時代とも考えられる。親鸞聖人は、農民、武士、商人、職人など、苦境に喘ぐ万人が救われるためにはどうすれば良いのかを考えられた。一部の支配階級、裕福で教育を受けた者、修行して悟りを開いた者だけが救われるということはおかしいと考えられていたに違いない。

浄土真宗は、当時のキリスト教のように理解しがたい邪教として迫害を受けていたのでなく、庶民も幸せに生きる権利があるという基本的人権を覚醒させたということに対する権力者の怖れがあったのではないか。弾圧をしていた支配階級も浄土信仰は理解しており、憧れすら持っていたらしい。

■ 全体を通しての感想

武士が台頭し最初の幕府が鎌倉に出来た時代でまさに変革期。荘園が作られ、土地争いの戦が繰り返され、庶民は苦しい生活を強いられた。生きるために物を奪い人を殺すなどは日常茶飯事であった。

親鸞聖人は、このような庶民に目を向けて全ての人を救うにはどうしたら良いかを考え抜かれた。国府津の滞在は、教行信証を書き終えて、その内容を検証する重要な七年間だったのでは思う。

この相模の地で教行信証を検証し「自分の考えは正しい」という確証を得て、それを携えて京都に戻り、浄土真宗の布教の総仕上げのフェーズに入られたのではないかと思う。

親鸞聖人は、比叡山の延暦寺に二十年以上修行され、あれだけの著作を著された秀才であるが、時代の風を読み生涯人類の幸福について考え続けた救世主でもあった。

箱根神社の親鸞聖人の銅像を拝見すると、厳しい表情の中に深い知性を感じる。非常に頭の良い合理的な考えができる人、全ての人を救うという慈悲の心を持った人、また現実主義の人ではなかったかと思う。

他人が幸せになることを説く前に、自分が幸せでなければならないと考えていたのではないか。うまいものを食べ、気持ち良く眠り、温かい家庭を作り、健康で楽しい生活を送るという万人の欲求を追求し実践してみせたのではないか。一人ひとりがこのような生活をすることで世の中が良くなり、時代が前に進むと確信していたに違いない。

無理をするな、自由に生きろ、幸せになれ、そんなことを親鸞聖人は言われているのではないか。浄土真宗は、まだまだ分からないことだらけだ。でもだから面白い。先は長い。無理に分かろうとしなくていい。これで良いのだ。