2019年10月1日火曜日

第八回 金沢仏教文化講演会

第八回 金沢仏教文化講演会

第1部:「天台聲明~合曼供音用~」
天台聲明音律研究会(天台宗僧侶)

第2部:テーマ「花は嘆かず、今を生きる」
講師 円覚寺 横田南嶺 老師(臨済宗円覚寺派管長)
開催場所 金沢公会堂
主催 金沢区佛教会 金沢区釋尊奉讃会
日時 令和1年9月29日 第1部 12時50分〜14時20分 第2部 14時35分〜15時40分

『花は嘆かず、今を生きる』の感想

いつもハガキを送っていただいておりましたが、初めて金沢区釋尊奉賛会の講演会に参加させていただきました。新しい公会堂も初めてでした。素晴らしい公会堂で、第1部の演奏も抜群の音響でした。200人くらい参加されていました。講師の横田さんは、前の東京オリンピックの時のお生まれということで、私より一回りもお若い方でした。横田さんは、二歳の時に死について興味を持ち、今まで、その一点について研究をされているということでした。私が死を意識したのは、幼稚園の頃だと記憶しています。曽祖父の死がきっかけだと思います。それまでは、人間は死なないと信じていましたので本当に毎日がハッピーでした。葬式を見て、親から話を聞いて人間には死という終着点があることを知り今までの幸福感は霧散しました。還暦を過ぎてお寺と関わることが増えてきて、死というものを日常茶飯事として目の当たりにしてきました。人は、死とは何かを一生かけて考える生き物ではないかと最近思うようになりました。

釋尊は、道ゆく人に死とは何かと問われた時、野に咲く花を一輪摘んで差し出したそうです。それとおなじことを実践した満員のバスの中の少女の詩が紹介されています。死があるから生が輝いていく。どんなに頑張っても100年しか生きられないという絶対的な真理がある。だから、毎日、この一瞬一瞬が大事だと言われていました。春になると野山には、花が一斉に咲き出して生を謳歌しますが、夏が過ぎ秋になると葉が落ち冬になれば、荒野となり何も残りません。この繰り返しを何千年、何万年と続けています。でも、それを決して嘆くことをせず、凛とした綺麗な花を咲かせて人の目を楽しませてくれます。今をどのように生きるかを深く考えさせていただいた日曜の午後でした。(20190929 廣瀬隆夫)

坂村真民(1909~2006)

「花は嘆かず」
わたしは
今を生きる姿を
花に見る

花の命は短くて
など嘆かず
今を生きる

花の姿を
替美する
ああ

咲くもよし
散るもよし
花は嘆かず
今を生きる

「時」
日の昇るにも
手を合わさず

月の沈むにも
心ひかれず

あくせくとして
一世を終えし人の
いかに多きことぞ

道のべに花咲けど見ず
梢に鳥鳴けど聞かず
せかせかとして
いかに多きことぞ

二度とないこの人生を
いかに生き
いかに死するか
耳かたむけることもなく
うかうかとして
老いたる人の
いかに多きことぞ

川の流れにも
風の音にも
告げ給う声のあることを
知ろうともせず
金に名誉に地位に
狂奔し終わる人の
いかに多きことぞ

生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)

時人を待たず
臆々(ああ)

「自分の花」
真実の自己を見出すために
わたしは坐を続けてきた

自分の花を咲かせるために
わたしは詩を作ってきた

しんみんよしっかりしろと
鞭打ち励まし人生を送ってきた

天才でない者は努力するほかに道はない
タンボポを愛し朴(ほお)を愛するのも
その根強さとその悠揚さとを
身につけたいからである

坐も生死
詩も生死である

ああこの一度ぎりの露命の中に咲く花よ
どんなに小さい花でもよい
わたしはわたしの花を咲かせたい

「タンポポのように」
わたしはタンポポの根のように
強くなりたいと思いました
タンポポは
踏みにじられても
食いちぎられても
泣きごとや弱音や
ぐちは言いません
却ってぐんぐん根を
大地におろしてゆくのです

わたしはタンポポのように
明るく生きたいと思いました
太陽の光をいっぱい吸い取って
道べに咲いている
この野草の花をじっと見ていると
どんな辛いことがあっても
どんな苦しいことがあっても
リンリンとした勇気が
体のなかに満ち溢れてくるのです

わたしはタンポポの種のように
どんな遠い処へも飛んでいって
その花言葉のように
幸せをまき散らしたいのです
この花の心をわたしの願いとして
一筋に生きてゆきたいのです

「ただそれだけ」
宗教臭い人間になったら
もうおしまいだ
仏教臭い人間になったら
もうおしまいだ
詩人臭い人間になったら
もうおしまいだ

人を救うんだ
人を助けるんだ
そういうことを
口にする人間になったら
もうおしまいだ

花咲き
花散る
ただそれだけ
それでいいのだ
ただ黙っていても
心が結ばれてゆく
そういう人間にならねばならぬ

「バスのなかで」
この地球は
一万年後
どうなるかわからない
いや明日
どうなるかわからない

そのような思いで
こみあうバスに乗っていると
一人の少女が
きれいな花を
自分よりも大事そうに
高々とさしあげて
乗り込んできた
わたしは思った

ああこれでよいのだ
たとい明日
地球がどうなろうと
このような愛こそ
人の世の美しさなのだ

たとえ核戦争で
この地球が破壊されようと
そのぎりぎりの時まで
こうした愛を
失わずにゆこうと
涙ぐましいまで
清められるものを感した
いい匂いを放つ
まっ白い花であった

「花」
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びだけが残るのだ

「念ずれば花ひらく」
念ずれば花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった

そしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

「二度とない人生だから」
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないようにこころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く便りをしよう
返事はかならず
書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日しづむ日
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの星々の光にふれて
わがこころをあらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一編でも多く
作ってゆこう

わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう

「光が射しているのに」
光が射しているのに
あなたはそれを浴びようとしない

呼んでおられるのに
あなたはそれを聞こうとしない

手をさしのべておられるのに
あなたはそれを握ろうとしない

お経にもそんな人のことを 書いてあります
どうか素直な心になって
二度とない人生を
意義あるように生きて下さい

「タンポポを見よ」
順調に行く者が
必ずしも幸せではないのだ
悲しむな
タンポポを見よ
踏まれても平気で
花を咲かせているではないか

「鈍刀を磨く」
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を借す必要はない

せっせと磨くのだ
刀は光らないかもしれないが
磨く本人が変わってくる

つまり刀がすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ

そこが甚深微妙(じんしんみみょう)の世界だ
だからせっせと磨くのだ

「希望」
漫然と生きているのが
一番いけない

人間何か希望を持たねばならぬ
希望は小さくてもよい

自分独自のものであれば
必ずいつか
それが光ってくる

そして
その人を助けるのだ

「本気」
本気になると
世界が変わってくる
自分が変わってくる

変わってこなかったら
まだ本気になっていない証拠だ

本気な恋
本気な仕事
ああ

人間一度はこいつを
つかまないことには

「悟り」
悟りとは
自分の花を
咲かせることだ

どんな小さい
誰のものでもない

独自の花を
咲かせることだ

「尊いのは足の裏である」
尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である

一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
その努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの

しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ

頭から
光が出る
まだまだだめ

額から
光が出る
まだまだいかん

足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である



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